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こぎん刺しと菱刺し



「こぎん刺し」は日本3大刺し子の一つで青森県津軽地方に伝わる刺し子技法の一種で、麻布の荒い目を塞いで行くように糸を刺し施した意匠が魅力的特徴です。

日本3大刺し子

日本三大刺し子は、津軽こぎん刺し・南部菱刺し・庄内刺し子の3種です。前者の二つの刺し子はこの地域で唯一自給自足ができた麻でしか衣類を賄うことができなかった農民が、織った麻布に更に麻糸を規則的に刺し施して耐久性や保温性を図る工夫から始まったものでした。一方、庄内刺し子は衣類の自給自足が満足ではなかったものの、日本海を通じて京都や大阪の物資の流通があったことから、都の古着や古布を入手することができました。庄内刺し子はこれらの古布を布地の目に関係なく刺し重ねて分厚い耐寒衣類を作ることからはじまりました。

 

庄内刺し子のような刺しは飛鳥時代の「刺納」、「刺し繍い」、「纏い縫い」にルーツを見ることができ、このころから日本全国に存在していたものと思われますが、津軽こぎん刺しと南部菱刺しは他の地方では見られない独自の発展を遂げた刺し子になります。こぎん刺し・菱刺しは刺し子の中でも「目塞ぎ刺し」と言い、布の目を数えながら糸を刺して模様を一段一段積み上げていく特徴の技法で、太い糸で織られた目の粗い布に施します。こぎん刺しは比較的古い資料が残っており、昭和の初期から地域の伝統産業としての継承活動を積極的に行ってきたこともあり、全国的に伝統工芸として知られています。一方で菱刺しは認知がまだ広がっておらず、こぎん刺しの一つと間違って認識されることがありますが、地元の女性たちが地道に継承を続けて来られ、400種類もの菱刺し模様があったことを確認されています。どちらも現在は誰でも容易に楽しめる趣味手芸の一つとして多くの方に愛好されています。

青森の刺し子

 

刺し子の中でも独特の発展を遂げた、南部の「菱刺し」と津軽の「こぎん刺し」。呼び方はまるで別物のようですが、模様の構成と色使いに特徴の違いが見られますが、ベースとなる方法は同じで、共通する部分もあります。菱刺しが発展したかつての南部藩は岩手県北部までが藩領でした。にもかかわらず、この菱刺しはほぼ青森県内の地域でしか見られません。岩手県では刺されていなかったのか、もともとはこの二つは同じ起源だったのか、どのような歴史から二つの刺し子が始まったのかは明らかではありません。

南部菱刺し

◆特徴

  • 横長の菱形の枠でモチーフを囲う「型コ」目数比がタテヨコ1:2。
  • 「型コ」を一つ一つ刺し並べていく。
  • モチーフは偶数の目数構成。種類は約400種以上。
  • 曲線や円形に近い丸みを帯びたシルエットのモチーフ。
  • 糸を刺す麻布は水浅葱色が多く、初期の刺し糸は黒や白が多かった。
  • 刺し糸は綿糸・毛糸・化繊・混紡糸など種類様々で色彩も豊か。

 

 
布文化と浮世絵の美術館アミューズミュージアムにて撮影
菱刺しの歴史

菱刺しの起源は今から200年前と推定されています。明治以前の青森県は西の津軽藩と東の南部藩では気候が大きく違い、肥沃な津軽に対して南部は作物の十分に育たない地域で刺し子の糸を得ることが容易ではありませんでした。明治に鉄道が開通されてからは綿織物が関東から流通されるようになっても農民の生活の苦しさはなかなか満足に改善されることはありませんでした。南部菱刺しがモチーフの一つ一つに色や素材の違いが見られることには、得難い貴重な糸を余すことなく大切に使いきろうとする気概が伺えます。菱刺しは主に前掛け・着物の肩袖・ももひき・手甲に施されました。昭和の初期頃まで前掛けを実際に使われていたと言われています。

※本サイトでは、こぎん刺しだけでなく南部菱刺しも誰でも容易に同じ材料で楽しめる目塞ぎ刺し子であることから、菱刺しにまつわる情報も同時に提供していきます。菱形の型コには身近な動植物から採った名前がつけられています。これらはモドコのデータベースで閲覧が可能です。

津軽こぎん刺し

◆特徴

  • 布幅いっぱいに1段1段刺して模様を作っていく。
  • 藍染の布に白い綿糸で刺す2色のコントラスト
  • 基礎模様(モドコ)の構成は奇数目数で成り立っている。
  • モドコの配置の工夫で布一面に大胆な模様構成をする。
  • モドコは一目づつずらしてつくる菱形正方形。
  • 目数比は タテヨコ1:1
※モドコの名前は生活環境の中からふさわしい呼び名がつけられ、現在も津軽弁のままその名前で使われています。また、上達するとモドコと地刺しを応用して組み合わせパターンを自在に構成することもこぎん刺しの面白みの一つです。

 

こぎん刺しは農作業の野良着に施され、模様の配しかたの違いから地域で3種類に分類されます。

西こぎん(弘前市西部〜目屋)

肩の部分に黒糸と白糸で交互に刺して横縞を出す特徴があり、これは重荷を背負った時の擦れに磨耗を防ぐ効果があります。また、苧麻を精練して細糸に引いて織られたものが多くこれらは繊細で上質な外出着や礼服としてもふさわしいデザインと考えられていました。

また、肩の縞模様の下にさかさこぶという轡繋ぎを取り入れた横模様が多く見られました。この模様は、当時は山村で炭焼きを生業とする人が多かったので、山歩きの時にマムシなどに噛まれないように1種の呪いとして野良着に取り入れられていました。

東こぎん(弘前市東部〜黒石市)

西こぎんに比べ、太めの麻糸で粗めに織られた布に変化の少ない単調な模様が多くシンプルな構成でした。

三縞こぎん(五所川原市金木周辺)

この地域はこぎんの普及率が低く(この地方は当時冷害凶作が頻発しこぎんができる生活の余裕がなかったと思われる)残されたこぎん刺しは少ないですが、肩から背中、胸の上部に太い横縞3本を白と黒で刺す大胆な太い線を配すモダンさはこの地域でしか見られない特徴です。

 

 

「こぎん刺し」の語源

江戸時代には、小巾(こぎん)という、農民が着る麻の単衣の短い労働着がありました。これに糸を刺して補強した着物を綴れ刺しまたは刺しこぎんと言っていました。それがいつの間にか”小巾”でも”刺しこぎん”でも「こぎん」と呼ぶようになり、刺しこぎんが「こぎん」で通じるようになったと言われています。

こぎん刺しの歴史

江戸時代の津軽藩は厳しい倹約令により、綿や絹を身につけることが許されなかった農民が唯一自給自足できた麻を布に仕立て野良着として身につけていました。寒さの厳しい北国の衣類としては全く適当な素材ではない麻に少しでも耐久性や保温性を図るため、麻糸で刺し子を施し始めたのがこぎん刺しの始まりと言われています。

明治になり倹約令が解かれ、農家にも綿花が流通するようになりました。麻とは格段に違う保温性・耐久性と、刺し糸として滑りがよく刺し子の作業のしやすさから、急激に綿糸で刺すこぎん刺しが発達しました。しかしそれもつかの間のことで、鉄道の開通により刺し子の必要ない綿織物が容易に入手できるようになり、こぎん刺しは明治28年ごろを最盛期に急激に衰退しました。明治の終わりにはほとんど刺されていなかったと言われます。

出典:芹沢銈介[作品] 監修・芹沢長介 発行・東北福祉大学
※雑誌「工藝」は民芸運動の機関誌として1931年1月に創刊され、月刊誌として1951年1月の第120号の最終巻まで発行されていました。

衰退したこぎんに復活の兆しを見出したのは昭和7年2月に発表された雑誌「工藝」14号でした。(柳宗悦が1931年から1951年の間に発行した雑誌『工藝』)柳宗悦は、昭和の初め、青森出身の教え子から紹介された津軽こぎん刺しをきっかけに魅了され調査・収集をはじめました。これらの集大成が「工藝」14号での発表でした。

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その後、昭和10年代には全国的な工芸の復興の活動が起こり、弘前でも昭和18年にこぎん振興会が結成され伝統工芸であるこぎん刺しの普及を始めました。昭和40年代の民芸ブームの影響で色のバリエーションを増やしカラフルな趣味手芸としてこぎんを楽しむための本も多数出版されるようになり、愛好者が現れ、海外でもこぎん刺しの作品が発表されるようになりました。根強い人気が続く中、近年はこぎん刺し製作キットの流通や各地でのこぎん刺し教室の開催、ハンドメイドブームの影響もあり、こぎん刺し・菱刺しは日本国内に限らず世界で手芸愛好者の誰もが知る存在になっています。

 

(参考文献)

『津軽こぎん』 横島直道編・著(日本放送出版協会)

『改訂新版菱刺しの技法』 八田愛子・鈴木堯子著(美術出版社)

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