こぎん刺し復興の鍵 『工芸』14号
江戸から明治の初期にかけて隆盛したこぎん刺しは、青森県に鉄道が開通されてから急速に衰退していきました。明治末期にはこぎん刺しを刺す人はほとんどいなかったと言われます。そのこぎん刺しが昭和7年2月に発行された雑誌『工芸』14号で紹介され全国的に知られるきっかけとなりました。
『工芸』は民芸運動最初の機関誌として昭和6年1月に月刊誌として創刊されました。戦時中に停滞が余儀なくされましたが、昭和26年1月に発行された最終巻120号まで、柳宗悦氏が直接編集を担当した唯一の民芸運動関連の雑誌となります。雑誌も一つの工芸品であるという柳氏の考えがそのまま反映された全120巻の装丁デザインも素晴らしい逸品です。
その『工芸』14号で初めてこぎん刺しを紹介した文章が、昭和49年発行の『津軽こぎん』(日本放送出版協会)に掲載されています。編著者である横島直道氏が『津軽こぎん』に柳氏のこの文章の概要を掲載しようとするものの一字一句はずせない…と述べられているように、文章全体が誰も見ていないこぎん刺しの当時の様子を柳氏は見てきたのかと思うくらいに当時をイメージできる素晴らしい物語のようで、また、こぎん刺しの魅力・凄さをこぼすことなく詳細に追求し語っています。現代では図案を書く若しくはパソコンで製作することが容易ですが、当時の字を書くことも知らない女性たちが口伝と経験の積み重ねであの壮大なこぎん刺しを作った凄さを改めて認識しました。
koginbankでは、この柳宗悦氏が残したこぎん刺しへの愛が溢れた文章はアーカイブとして残すべき文章として、『津軽こぎん』(日本放送出版協会・昭和49年発行)に掲載された文章をここに紹介します。
「こぎんの性質」
(一)冬に入れば津軽の吹雪は荒れ狂う。山も樹も家も人も、その前には力がない。手向かうことも無理である。その雪が迫れば、もう外の生活がない。威圧は激しい。風が勢いを添え、寒気を添え、寒さが痛さを加える。それに積もる嵩は深い。はや10月の末にもなれば、空は雪を含んで陰鬱である。秋は早く過ぎる。続くのは物憂い冬である。夜はいたく長い。空が晴れるのは春4月を待たねばならぬ。年の半ばは降りしきる雪で埋められる。それよりも生活が埋められると云う方がいい。此長い時間をどう暮らすか。自ら野良の仕事は屋内の仕事に置きかえられる。洩れてくる暗い雪明りの下で、又細い燈明を頼りに、様々な手仕事が此時に始まる、之で時間を消すのである。否仕事が時間を吸いとるのである。
時間が残れば冬は呪いである。だが手仕事がある。之を始めれば時計の針も時を刻まない。「こぎん」も雪国の産物である。時間を忘れた産物である。せわしない国は、「こぎん」が育つ故郷ではない。何の摂理か、雪と手工芸とは結縁が深い。
(二)こんなものはもう二度と出来ない。決して出来ない。津軽は他の如何なる地方でもない。自然も歴史も人情もそれ自らである。まして昔と今とは時の流れが違う。それらの因縁が集まって「こぎん」と呼ぶ布が産まれたのである。「こぎん」は他の国で生立つ機縁を有たない。日本で見られる地方的工芸品の又とない例である。
伝統は既に絶えた。一度絶えたらもう甦る望みは薄い。なぜなら特殊な前後の事情が此の手工芸を招いたからである。今も国は残る。今も雪は降りしきる。だが今の女達は「こぎん」を作る事情を有たない。よく「こぎん」を作り得ないのも無理はない。「こぎん」は去って行く「こぎん」である。追憶にのみ活きる「こぎん」である。だが美しさばかりは死なない。それは又とない「こぎん」である。
(三)醜い「こぎん」はない、一枚とてない。捜しても無理である。品の多少に上下はあらう。模様に幾許かの甲乙はあらう。だが悪いものとてはない。なぜ醜い「こぎん」はないのか。別に秘密はない。法則に従順だからと「こぎん」は答へる。此答へよりはっきりしたものはない。
凡ての模写は経緯の糸で決定される。刺す者はその布目に忠順である。はづせばもう「こぎん」ではなく、只の刺繍である。経緯の糸条は法則である。法に従へばこそ「こぎん」の模様がある。それは数的秩序である。数を乱せば模様は乱れる。数に従へばそのまま模様である。どう目を拾うとも数が合えば美は整ふ。数が模様の母である。その力に委せればこそ模様は安全である。「こぎん」に危険はない。どんな女が作らうが、凡ては美しくなる「こぎん」である。道を踏む故にそうなるのである。彼女達に力があるのではない。数への服従が此不思議を演ずるのである。
今の人々は自由に急ぐ。それ故「こぎん」が出来ない自由を嘗める。醜さの大かたは法を等閑にするからである。数は美と結び合ふ。
(四)閉ざされた冬籠りには運命の悲しさがあったであらう。だが「こぎん」に呪ひはない。作ることの喜びにここで逢へる。呪ひであったなら此仕事はない。之が作れればこそ人並みの女である。娘としての嫁としての誇りさへそこに見えるではないか。競って、いいものをいそしむのである。さもなくばこんな誠実な仕事はない。倦怠な此仕事に、凡ての倦怠を忘れている。女達は作ることを愛したのである。愛さない様なものは、男からも愛を受けなかったであらう。娘のよしあしは「こぎん」に映る。母は手にとってそれを幼い吾が子に教へた。
「こぎん」の模様はしげしげと話題に上がったであらう。模様の名までが一々地方の呼び方で伝わっている。それをどう組み合わせるか、どれだけ組み合わせを知っているか。女達の蕙智がここで試験をうける。様々な模様は皆その答へである。
好んで女達も男達もそれを纏ふて賑やかな街へと指した。祝ひの時、祭りの時、村々は「こぎん」の綾で織られたのである。
(五)なぜ北の国の一隅にこんな刺繍が発達したのか、どこからそれを想ひついたか、古書に依れば紺の麻布は奥羽地方の土民の衣服であったと云ふ。刺子は恐らくその破れを繕ふ事から起こったであろう。
あり合わせの白い麻糸で、布目を拾っては丁寧に穴を埋める。見れば飛び飛びな繕がそのまま模様である。縁の痛みを直せば之も輪廓になる。一層始めから麻布に刺して了へば丈夫である。刺すのには布目を拾へばいい。目の拾い方でおのずと立派な模様が出てくる。手間であるが長い冬には又とない手仕事である。出来上がれば誰も美しいと云ふ。一人から二人に、二人から三人に、そうして長い歳月と大勢の者とが此仕事を盛り立ててゆく。たまたま木綿が伝わったのは、土民にとってどんな喜びであったか。其木綿で刺せば冷たい麻まで温かになる。遂には之がなすべき女達の手仕事である。そうしてそれが誇りにさへ高まってゆく。用に根ざして美に進むところに「こぎん」の歴史が読める。
だが女達は充分に従順である。みだりに手法を変へはしない。よし手間どっても一々布目を拾う。伝統には敬虔である。その故に道を踏みはずす場合がない。その美しさは用に発し法に根ざしている。「こぎん」は健全な「こぎん」である。健全な美しさがあれば、工芸の工芸である。
(六)名もない津軽の女達よ、よく是程のものを遺してくれた。麻と木綿とは絹の使用を禁じられた土民の布であった。だがその虐げられた禁制の中で是程美しいものを産んでくれた。それを幸な不幸と云はうか、又は不幸な幸と呼ぼうか。人々は生活に即して、ものを美しくしたのである。之こそは工芸の歩むべき道ではないか。私達はその美しさに引かれている。数々の教へをそこから学んでいる。
識らないではあろうが、それは日本にとっては又とない刺繍なのである。遠い国の私がそれに廻り逢へた因縁を感謝する。是等のものを作った人々は大方は既に死に絶えたのである。片田舎の貧しい女達であったから、今は守る墓もなく雪の下に眠っているであらう。よし春が廻るとも、花を手向ける者は絶え絶えになってゆくであらう。だが私は代って此一文を捧げる。私は是等の文字が一つの「こぎん」である事を望む。之でその仕事を永く記念しよう。私と共に心の花を手向ける人は、今後も、いや増すにちがひない。「こぎん」は死なない「こぎん」である。