2017冬の弘前訪問記7〜こぎんの歴史を訪ねて〜
2018.03.20
昨夏、友人を通じて出会った大川亮はこぎん刺しに限らず地域の農閑期の産業育成に尽力してきた偉人でした。そして、こぎん刺しの衰退から復興への布石を投じたキーマンでもあります。しかし歴史の書籍を調べても、大川亮とこぎん刺しに関する記述が少ないことが、私は不可解に感じていました。 昨年の記事はこちら
夏休み2017・大川亮とこぎん刺し夏に大川家で見せていただいた古作のこぎん刺しには、大川亮が付けた分類名がタグ付けされていました。また大川は、後に弘前こぎん研究所を設立した木村産業研究所で昭和7年開設当初から嘱託として在籍していた事実が残っています。この嘱託で働いた期間は、現在の平川市の自宅から通えるにもかかわらず弘前市内の借家へ住まいを移していました。この仕事にかなり気合が入ってると私は思うのです。なので、当時の実績が何か残っているものだろうと当然のように思ってしまいます。こぎん刺しを世に知らしめた人が、こぎん刺しの復興を期待された会社にいたのですから。
上の小さなタグの名称が大川亮によるもの。下の横書きの名称は陶芸家でこぎん研究家でもあった高橋一智によるもの。
現在の大川家を守る、大川亮の孫娘・大川けい子さんは7年前に大川亮生誕130年回顧展を開催しました。この回顧展の開催も、私には前後の脈絡なく突然出てきたような感じがして経緯が気になっていたので、昨年末に再びけい子さんを訪ね、お話を伺いました。
けい子さんは、もともと生物学研究者でした。小学生の頃に祖父である大川亮は亡くなっており、農閑工芸やこぎん刺しに関することは直接お爺様から聞いたことは無く、家族や親族の話で知る程度でした。
左が大川けい子さん。私たちの後方がかつては冒頭の写真の囲炉裏があった板の間でした。
大川亮生誕130年記念回顧展の開催が決まる数年前、お祖母様の遺品に、ブルーノ・タウトからの手紙(有名な著書「日本美の再発見」には大川亮を訪ねたことが記録されている)が見つかったことや、ご縁あって参加した弘前市の前川国男の建物を大切にする会で、大川亮が木村産業研究所の嘱託をしていたことを知り、ご自身がこれまで知らなかった祖父・大川亮の足跡を遡り、きちんと整理して記録をしようと関係資料や情報を探し集めていました。
その一方で、築400年と言われるけい子さんのご自宅と、代々この地の豪農として地域に貢献した大川家の功績を、地域文化の財産として保存活用する団体設立を進めていた地元の関係者から、生誕130年のタイミングがあるので展示会をしないかと、けい子さんに声がかかりました。その頃には、既に忘れ去られつつあった地域の歴史や、当時の生活ぶりを直に感じてもらえる良い機会になればと、ご自宅や残された遺品を公開することを決めました。
けい子さんや地元の人たちの動きが、不思議と回顧展のタイミングに合わせるかのように、大川亮の新たな足跡がわかってきました。その頃、こぎん刺しがメディアでも取り上げられるようになり、地元の人たちも関心を持ち始めていました。ある時、近所の郷土史研究家の方が、けい子さんのもとに、2009年に発行大川亮と横島直道
けい子さんは大川亮の木村産業研究所時代の事情を知る人から、横島直道と大川は仲が悪かったらしいと聞いています。横島直道は大川亮と同じく設立当初から木村産業研究所に在籍し、後の弘前こぎん研究所の初代所長になった人です。絵描きを志したことのある大川と、理系の科学者であった横島では視点や考え方が違うのはなんとなく想像つきます。お互いを批判し合うくらい険悪な関係だったようです。写っている男性が初代弘前こぎん研究所所長の横島直道
昭和15年に大川亮は木村産業研究所を退職して平川市の本宅に戻り、その後の生涯を農閑工芸に注ぎました。昭和33年に77歳で亡くなっています。一方、横島は昭和15年から終戦まで滞在した横浜から弘前に戻り、木村産業研究所の事業で唯一甦った青森ホームスパンを立て直します。昭和37年には弘前こぎん研究所と改称し、こぎん刺しの製造販売を本格的にスタートさせました。そして二人が在籍していた木村産業研究所は、戦時中は専ら軍事産業に特化しましたが、戦後はそれらの産業は消滅しました。戦争の混乱期を通り過ぎて、いつのまにか大川亮の木村産業研究所でのこぎん刺し復興に関わった実績が霞んでしまったのでしょうか。
この上の資料は大川亮が在籍していた当時、定期的に発行していた木村産業研究所の社内時報です。大川亮の遺品からこの1枚だけ見つかりました。けい子さんは大川亮が木村産業研究所に在籍していた頃の様子を知る手掛かりとして、回顧展以前からずっと他の号を探していますが、現在わかっているのは日本民藝館に保存されている41号のみです。こぎん刺し復興のキーマンでありながら、その復興に携わった実績が消えてしまっている大川亮を知る唯一の手掛かりとして、けい子さんは現在も探し続けています。
私が抱いていた大川亮に関する不可解は、まだ解けそうにありません。この時報が戦争の混乱で散り散りになって、戦後の社会復興の中で有耶無耶になってしまうのは致し方ないことなのかもしれません。そこを粘り強く探し続けているけい子さんが、これまで集めた資料の数々を見ると、文字の読み書きが出来ない農民の中から生まれたこぎん刺しの記録が奇跡的に残されているのは、こぎんに魅了された先人たちが過去を遡って歴史を紐解いてくれた苦労の賜物なんだと痛感させられます。その賜物も新たな事実の発見によってこれからもブラッシュアップされるのでしょうが、その繰り返しが万丈な伝統を築き、次世代にとって誇りとなる伝統文化として受け継がれて行くのだと思いました。
農閑工藝館として
ご自宅に残された資料から時代考証を続けているけい子さんは、遺されたこれらの資料やご自宅をどのように保存していったら良いのか現在も暗中模索をしているとのことでしたが、後々は農閑工藝館として一般公開できるように準備を進めています。大川亮の農閑工芸研究所で制作されていたのは、こぎん刺し以外にもオリゲラの装飾を活用したインテリア用品やバッグ、地元のアマ石と呼ばれる石灰岩で作る津軽人形など、ご自宅では当時の製作者の写真と併せて展示されています。 上の写真のカゴやバッグの元になっているのはこのケラの胸元を彩る装飾編みです。 オリゲラは当時の農民の雨具でした。この地域では、男性はオリゲラを編み、女性はこぎんを刺して結婚する者同士贈りあっていたそうです。 オリゲラの内側の編みも見えないことがもったいないくらい美しい造形です。 アマ石で作られた津軽人形たち。素朴で柔らかで温かみのある表情。 この葡萄の蔓で編まれたバッグは今では見られない繊細な編模様がとても素晴らしいです。 農村の暮らしの造形から新しいデザインを抽出し新たな文化産業を作り出した大川亮の功績は東北における農閑工芸の最も早い事例とされています。当時の製作された品々は50年経った今も色あせることなく、けい子さんはご自宅で大切に保管されています。生活の進化とともに忘れ去られつつありますが、豊かな文化を形成する地場の豊富な資源の存在を再発見させられました。農閑工藝館(準備中)について
大川家の築400年と言われる萱葺屋根の住まいと大川亮が遺した農閑工芸の数々を希望者に公開しています。今年は、6月から萱葺き屋根の葺替え工事等修繕工事が始まるため、案内できる時間が限られてしまうとのことです。希望される方は事前にご相談ください。詳しくは下記までお問い合わせください。 TEL/FAX:0172-44-3429 E-mail:keiko.okawa@gmail.com 〒036-0101 青森県平川市大光寺一滝本105インタビュー:koginbank編集部 text:石井/ photo:浅井